昭和五十四年四月十二日 朝の御理解


 御理解第六十四節
 「此方は参って尋ねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路の所を参って来るが信心して徳を受けて身凌ぎをするようになれ」


 参って尋ねる所がなかった。尋ねると云うことはまあピンからキリまで有る訳ですけれども日常茶飯事の中に右にして良いやら左にして良いやら分からない様な事がございます。そういう様なこともお尋ねが出来る。
 と云うと段々信心を進めて参りまして身凌ぎをする、信心して身に徳を受けてとこう言われる。身凌ぎが出来るようなおかげ、又は御神徳を受けることの為にお尋ねをしている。
 私は金光様の御信心はどこまでも御神徳を頂くことのためのま教えが全てだとこう思うんですけれども、いわゆる金光教の信心を合楽では「和道十全の教え」と言う風に説きます。ね、やわらかい道、十全とはもう完璧と言う意味なんです。言うなら人が助かって行くと言うことの上にもう完璧に助かれれる道を説くのです。それがまあ言うならば簡単と言えば簡単ですけれどもいよいよそれを身をもって行じて行こうと致しますと分からないところへ行き当たり分からないところへ迷いが起こって参ります。そういうところをですやはり信心を進めて、ね、例えば質問することすら分からんのですよね、初めの間は。信心を進めて参って居りますと分からないところに行き当たる。そしてそこをいわゆるお尋ねをしながら教えを頂きながら信心を限りなく進めて行くと言うことになるのです。
 昨日は神様の御都合だったでしょうか、九日か八日の日に久留米井上太郎先生が今文化ホールに日展があっておる。それで是非一遍親先生に見におい出られるように言うて呉れということを言って居りましたからもうその場ででも私は行きたいと思うてその様にお願いをさして頂いたら今日昨日十一日の日に行くように頂いて居りましたから昨日参りました。何のために今日はあのうここへ見に来たのであろうかと自分で、これは私は大体そのまあ素晴らしいと言うかね、世界一とか日本一とかとなんか素晴らしいと言うものは見ておきたい聞いておきたい、まあそんなものが私の心の中にございますから、日展も見た事がございませんからまあ見に行く気持ちになった訳です。そしてお願いをして結局昨日お許しを頂いて参りましたけれども何にもこれと言うて残るものが無かった。はあこの為になるほどそれは素晴らしいものですけれどももう第一とにかく三時間かかりましたずうっと一遍見て回るとに。もう彫刻から陶芸書道勿論絵画もう日本画洋画もうそれこそ一遍見せて頂ながらまあ極めて行くとこういう素晴らしいものが出来るんだなと言うことをまあ分からせて頂いた訳ですけれども見終わってしまって残ったものはもう只きつくてきつくてと言うことであった。はぁこれは私の体の限界を分からせて頂いたんだろうかと思う程にきつかった。
それでじっとまあその三時間もかかって見せて頂いたものを目をつぶってから何が残っておるだろうかと思うて思わせて頂いたら一番鮮烈に残っておるのは紛い仏不動尊でした。そのお不動さんの絵が角度を変えてもうそれこそこの大きな  をよりも大きな大作ですからねみんな。それが二つございました。皆さんもご承知のように不動さんと言うのは厳しい顔をして牙むき出してそして右手に縄ですかねえ左手に縄を持ち右の手にはあのうどっちだったかしら剣を持っておられますよね。
 私は今朝から思わせて頂いたんですけれどもね、この不動の信念と言うことを申します。ね、信心をさして頂いて究極は言うならば「安心のおかげ」安心のおかげとはどういう事かと言うと不動の信念から生まれる訳です。ね、もう一つ印象に残ったのは結局私の好きなものだけが残った。と言うのは陶芸なんかもでしたけれども玉三郎の「舞姿鶴の巣ごもり」と言う絵がございました。素晴らしい絵でした。もう一つは中村扇雀のやはり舞姿を描いてあるこの二つが隅から隅まで頭に残っている。好きなものちゃこんなにあるだろうかと思うくらい。ね、中村扇雀をモデルにした、それから玉三郎をモデルにしたあの踊りの姿である。ね、私はその自分の好きなものがこう鮮烈に頭の中に残っておる同時にやはり信心でまあ見た訳でしょう不動様を何とはなしに不動の信念そういうものを心に描いて見たのでしょう。ねその不動様二つと舞姿の絵二つが残らせて頂いたがね。
 この「和道十全」と言うこと、ね、と言うのはやはりやわらいだもの、ね、又は厳しいもの二つが一つに合体した中から生まれて来るのが何かというと「一切神愛」と言うことであります。
「一切神愛」と極められた時に生まれて来るのが「不動の信念」であり「安心」なんです。ね、どういう事であっても「一切が神愛」例えば食べ物に ものに致しますとこれは飲んではならない、これは食べてはならないと言うものが教祖の御信心にはない。ね、酒の好きな者は酒を甘いものが好きな者は甘いものね、但しそれを過ぎてはいけんとは教えてある。ね、言うならば一切が神様の愛の込められたものだと言うことです。辛いものでも甘いものでも食べ物だけの事じゃないですよ。一切の事柄でもです私共が生きて行く上に生活して行く上に言うならばね体が必要とするもの幸せの条件といったようなものが足ろうてくる為のその全てがです神愛の現れなんです。ですからこれをしてはならん、これをしてはよいと言うことは無い。どういう事でもいいのですけれどもね、いわゆる食べ物で申しますとそれをね、大酒大食は絶食の元と言うようにね、節度を持って頂け、いくら好きなものだからと言うてむさぼり食べると言うことはいけないぞと教祖は教えておられるですね。そういうところを云うならば踏んまえての「和道十全」であり「一切神愛」でなからなきゃならんと云うことです。そこから生まれて来る信心、ねそこにはだから例えば甘いものが好きな人が甘いものを食べる。それが食べ過ぎらないようなと云う心には厳しい心がある訳です。厳しいものがあるんです。ね、なら一切が神愛だから云うならば寝たり転んだりして楽な生き方をして良いと云うことはないです。悪いと云うこともないです。けれども私共はそこに一つの節度を持たなければいけないと云うことです。ね、
 昨日も御理解の中にありました様にね、右手に荒川ばってん、左手に佐川光男と云うような教えを頂きましたようにね、今日もやはり「和道十全の教え」と言うのは私が昨日日展を見せて頂いて荒々しいまでのお不動様の姿とそれこそもうほんとに優しい舞姿とこの二つが私の頭に残っていてしかも鮮烈に残って居る。ね、その残って居る二つのものが一つに合体した時に初めて「和道十全の教え」と云うことになる。「一切が神愛」と分からせて頂き生まれて来るのが「安心」であり「不動の信念」である。ね、一切が神愛と云うてなら食べてはならん、こうしてはならんと云うにではなくて、けれどもむさぼり食べるとかむさぼり行うと云う様なことはねやはり慎めと。ね、その辺のところをいわば生きていく私、例えて言うとね、今までの宗教がですお不動様的な荒行からと言うかあの表行です表行から生まれて来る安心であったり不動の信念である。けれどもこれはね夏の日の入道雲のようなものでいかにももりもりと力がでけたり信念が生まれたようであるけれどもこれはアッという間に消えて無くなるもの。そりゃそういう生き方からでもそりゃすさまじいまでの働きを起こすことは出来る。ね、そりゃもう人の真似の出来ないような表行をしてです、そりゃ一つのその信念とか不動の信念とかがまあ出来ますけれどもそしてすさまじい働きを起こすことが出来ますけれども、ね、これではなら誰しもが頂けていけると言う信心ではないし又それは夏の日の入道雲の様にいかにもこうもりもりと力が出来た様にあるけれどもサアッと消えて仕舞うものだ。だからそういう行者の所で助かっているところではその行者の行が消えて来ると又山に登らにゃならん、滝に打たれんならんという様なことになって来る訳です。だからそういう様なものが金光教では教祖は表行よりは心行をしっかりせよとこう仰る。合楽ではその表行と言うものを全廃と言うことにならなければと言う風に説く訳です。ね、そしてどういう修行さして頂くかと言うと「心行」であり「家業の行」である。ね、だからと言うてです、なら私共がならここで私が三時半から起きてきて一時間半からの御祈念を御神前でさして貰う。そしてここで例えば一日座り抜かせて頂くと言った様なですこれが言うならば厳しいことになるのですけれども、ね、それはいよいよそれを極めて行けば行く程にそうせずには居られない有難いものが生まれて来ると言うことです。ね、荒行と違うのはそこなんです。ね、そこに云うなら私の信心と云うか私の一日と言うものが律して来れる訳です。ね、それこそお不動様のその縄じゃないですけれども縄で如何にも自分を縛った様であるけれどもその縛られた中に言うなら畳半畳の中に世界が和賀心にありと言う様な有難い広々とした心が生まれて来る修行なんです、金光教は。ね、もう一切が神愛だからね、朝早う眠か思いせんでもお参りをせんでもと言う様なことじゃないことが分かります。それを自分を律して行く為にそれが為される。そしてそれが有難いものになり楽しいものになって来なければいけない。教祖の神様はそういう様な信心を説かれてある。それも私共の信心が進んで行かなければそうであるとは分からなかった。段々進めて行けば行く程にそうであることの確信が持てれる様になって来て合楽理念が誕生した。ね、
 だから合楽理念を以ってすることは有難うして楽しゅうてと云うけれどもいよいよそれを実行してみなければ駄目、実験をしなければ実証が生まれて来るそこに有難いものも楽しいものも生まれて来る。ね、合楽理念合楽理念と言うてなら合楽理念の芯が親孝行にあると言われるがね、果して自分の親孝行の心がどれほどあるのだろうか、神様に通う程しの親孝行心が自分の心の中にあるだろうか。ね、もうそれだけで言うならば失敗して仕舞う人がありゃせんでしょうか。ね、
 この方は参って訪ねる所がなかったと言うところはね、只ね、只お話を聞くとか自分の分からんところを尋ねるとか伺いをすると言った様な程度にこの御教えを終わらせずに身に徳を受けて身凌ぎの出来る様なと云う様なおかげの頂けれるお徳の頂けれる言うならば話の頂き方お尋ねでなからなければならんと云うことでございますよね。
 昨夜御祈念に出て参りましてからもう御祈念も終わってからでしたけれども、西岡先生がこの御大祭のお祝詞が何人かの先生方で出来上がって居る。だからその下読みをこれで良いかどうかして下さいとこう言うことであった。それで昨日の一時からそれをする様に約束して居った。ところが丁度その時間に帰って参りましたけれどももうとにかく体がもう棒にも箸にも掛からんごともう足が上がらんとです第一、と云う風にきつかったから西岡先生にその事を言うて今日とてもでけんから明日、今日ですね十二日の日にして下さいと言うて言うとりましたから今日その先生がそのことをここでお願いになりました。だからとにかくもう実を言うたら今晩でもよかばってんこんな風で疲れているから明日にして下さいと言うのを私は御神前に出らなきゃならない寸前にです思い出したんです。と言うのはあいた、明日は十二日だなと丁度一時から美登里会があることになっているから又出来ないなと思うたんです。これは今夜このきついとを押してからでもやっぱやっとかにゃいけんだろうかと思わせて頂いてお伺いをした。神様、心の中ではもうほんとに早く休みたい。それでも明日は十二日というて先生と約束をしたものの美登里会のことをコロッと忘れとった。それで思い出したからここは今晩の内にでもしとかにゃけんだろうと、それでもきついなとお伺いをさして頂いた。そしたら神様からね、あの実川縁雀演ずるところのね「鏡山」に出て来る岩富士の姿を頂いたです。皆さんご承知でしょうか。「鏡山」と云うたらね、女ばっかりのお芝居が有ります。中に岩富士と云うもう悪人の代名詞の様にあん奴ばっかりは岩富士のごつある奴と言うでしょうが、あの岩富士です。しかもそれは実川縁雀演ずるところの岩富士でした。もうほんとにもう私は思いました、ね、神様がこういう風にして手を取るようにしてそれこそお尋ねをすれば答えて下さるから間違わんで済むなあと云うことでございます。ね、どういう事かと皆さん思いますか。
私の心の中にきついけれども今晩でもやっぱりしとかなければ片付けとかなければいけんだろうかと思うてお伺いをしたことがいけなかったんです。ね、何故いかんかと云うともうこちらがきつい、今日神様が見せろと言われるならね、ほんとのことは出来ん。けれども私の心の中には言うならばもう明日に延ばして貰うそういうお答を頂くであろうとこっちがきついから、そういう思いでお伺いをした。そしたら実川縁雀演ずるところの岩富士の姿を頂いてね、心に実がないこと、ね、心に云うならばお伺いをする時には取分け平気でとこう仰る。ね、お伺いをする時にはね、心が何時も白紙でなからなければならないと言うこと。心の中にはあ今日しろと言われにゃよいがと言った様なものがあってお伺いをするのはほんとのことではない。ほんな答は出て来ない。ね、今日の云うならばお尋ねをすると云うこと、これは容易い意味合に於いてのお尋ねですよ。ね、右にしようか左にしようかといった様なことでもです、ね、自分がこうしたい自分がこうありたいと思いながらお伺いをしてもほんとの答は出てこない。神様はほんとの事は教えて下さらない。お尋ねをする時にはね、それこそ平気な心、平気と云うことは平生の心右でも良い左でも良いもう白紙の心でお伺いしなければならんのに私が昨日お伺いさせて頂いた時にはね、ああもう今日ははよ休めと云う様な心の中に期待してお伺いをして居るということです。ね、今日の六十四節に云うならば神様にお尋ねをするとかお伺いをするとかと言った様なことでも、そんな人がありますよ、今度はこんな風で旅行を勧められて居りますから行ったがよいでしょうか、行かんがよかでしょうか心では行こうごとしてこたえん。そうかそりゃ行きなさったが良かでしょうと言うことになる訳です。ね、
 お伺いをする時にはもう取分け平気、お尋ねをする時は白紙ね、こ言うならばお尋ねをするいわゆる言うなら何というでしょうかね、まあピンからキリまであるというその手前の一番手前のところのお尋ねであります。そして段々最後のところになって参りますと身に徳を受けて身凌ぎの出来る様なおかげを頂く為のお尋ねお伺いとといったようになって参りますと最高度、今の合楽ではどういう風に教えられるかと言うと「和道十全の道」が説かれるのです。ね、もし右手だけであったとしたらです、ね、言うならば表行なら表行というだけでは助かりようがない。その表行が本気で一生懸命出来ておる時にはそれこそすさまじい働きを起こす様な働きも起こって来るけどもこういうものは持続することは出来ない。ね、あらゆる宗教はまあ言うならばそういう様な事を教えてきた訳です。完璧な助かりにはならない。ね、それを言うならば合楽ではね、荒川ばってんと言うなら佐川光男を説いてくる訳です。ね、昨日私が日展を見て感じたお不動様と言うなら舞姿のその姿が鮮烈に頭の中に残っておる、そしてこれとそれとが一つになる時に「和道十全の教え」と言うことになるんだということを私は昨日自分の体の限界を知ることの為にやらせて下さったんだろうかと思うておったけれども言うならば今日の御理解の材料を頂くことの為でもあった。そして考えてみれば考えて見るほど素晴らしいことだと言うこと。ね、私共が願わせて貰うのはぎりぎりのところ安心のおかげ、言うならばどの様な場合でもびくともせん不動の信念、ね、そういう不動の信念、安心のおかげを頂くと言うことがです、ね、荒行からだけでは生まれないいや生まれる、けれでもそれは束の間のもの。ね、平生何時でも自分の心の中に喜びが安心がね生まれて来る。そこから確固たる不動の信念、それはどういう事かと言うと「一切が神愛」だからと分かるからであります。ね、一切が神愛だからということを分からせる為に言うならばあらゆる角度から合楽では説くわけです。だから一切が神愛だからと言うてならここに自分の好きなものが有るからそれをむさぼるように食べてしもうて良いか、ここは私共が生身を持って居る人間であるから教祖はそこのところにに釘を一本をちゃんと打って有る。「大酒大食は絶食の元になる」食べて良いのだ、飲んでもいいんだ、しても良いのだ。ね、けれどもねそれをしすぎたり食べ過ぎたり飲み過ぎたりはいけないぞと。ね、だからそこまでもいわば神愛に入れると言うことは出来ない。ね神愛なんだけれども私共が律して行かなければならないのは、ね、言うなら腹八分的なおかげをまあ言うならば修行としなければならない。何もそんなにね、言うならここ畳半畳の狭い所で座り抜かせて頂くと言う様な事はまあ言うならどうでもよいようだけれども自分を律っして行く為にこれがこの修行があるのでありその修行は段々そういうおかげを頂いて居る内にそれが有難いもの又とない尊いものに感じられて来る様になる。それがだから神愛。でもその場合はこうして朝参りをなさる、その朝参りがもうこよないね、言うならば信心生活の第一歩でありもう生活の中にこれは入って居る朝参りである。その朝参りが有難いものになり尊いものに感じられて来るようになる。そこにはもう修行という厳しいものではない。信心と言うのはそういう事になるのです。ね、そこから一つなるほど合楽で説かれる和道十全の教えを頂いてね、一切神愛と悟らせて頂けてそこから不動の信念がいよいよ確固たるものにね、安心の心がいよいよ内容が和らぎ賀こぶ心の内容であるようなおかげを頂きたい。今日は大変に難しいお尋ねと大変に一番容易いお尋ねの要領を今日は聞いて頂いたんですよね。どうぞ。